バカ犬にバカ猫が加わった!!

先日のことでした。うちの柴が飛んだ拾いものをしました。

 

いつものように食事の後に散歩に連れ出しました。自宅近くには、鴨川用水路という生活排水路があり、桜並木の散歩道もあります。小学生から学生時分まで、この地域で育ったので、全く無知ではありません。当サイトでも述べていますが、実家へ戻って来たのは約2年前になります。勝手知ったる地域でもあるので、散歩コースはほぼ決めていました。そのため、わたしとうちの柴にとっては、日常の一コマでした。

 

けれども、鴨川用水路の散歩道を西へ向かっていると、うちの柴がクンクンしながら急に足を止めました。そうして、やたらにクンクンしているので、おかしいな、と思い、リードを強く引かず、うちの柴に合わせました。散歩道には、街灯がありますが、時間になると、いくつか自動で消灯するようです。やたらにクンクンしていた辺りは、ちょうど街灯が切れていたところで、一度では一体何があるのか分かりませんでした。しかし、目をこらしてみると、小さな塊が見えました。さらに、よくよく見れば、それは猫でした。

 

わたしたちの気配を感じたのか、薄目を開けました。けれども、片目だけでじっと動かず、ただわたしたちを見つめていました。当初は死んでいるのか、と思う程、何も反応しませんでした。片目だけでも開けていたので、最初は危険だと思い、落ち葉で軽く頭を叩いてみました。それでも反応がなく、何も口にしていないようだったので、エチケット用のペットボトルの水を少し垂らしました。それでも何も返って来ませんでした。

 

もしかしたら警戒しているのか、と思い、一度立ち去ることにしました。しかし、鴨川用水路の散歩道を抜け、さいたま市桜環境センター横の公園内を回っていると、再び先の猫を見に行きたくなりました。ただ単に警戒しているなら逃げいているかもしれない、そうでなかったら一緒に連れて行こう、と思いました。

 

そうして、鴨川用水路の散歩道に急いで戻りました。所々街灯が消えているので、先の場所がなかなか分かりませんでした。そのため、いなくなったな、それなら生きてたな、と思い、ほっとしたことは確かです。しかし、事態は違いました。

 

目をこらしながら散歩道の端を見ていると、小さな塊がありました。以前の姿勢のまま、じっとしていました。違っていたのは、片目ではなく、両目を開けたことです。もしかしたら、さっきと同じコンビが来た、と思ったのかもしれません。体に触れてみると、ネバネバしたものが付いていました。翌日、これが何であったのか判明しましたが、それはあとで述べます。

 

確実に生きていることを確認したいと思い、頭を撫でてみました。さすがに素手のままでは引っかかれるとまずいと思い、軍手をしました。すると、ニャーニャー声を立てました。これなら大丈夫、と思い、自宅に連れて行くことにしました。右手にリード、左手に猫を抱え、長く感じた数百メートルの距離でした。誰にも会わないだろうと思っていましたが、時折、散歩時に会う「ながら犬散歩」の人に会いました。見て見ぬ振りをしているのが分かりましたが、構わず先を急ぎました。自宅に帰ると、寝ていた母を起こしました。経緯を説明し、翌日、母が近所の動物病院へ連れて行くことになりました。

 



 

病院から帰宅すると、前日とは打って変わっていました。両目もしっかり見開き、自分でグルーミングするようになりました。時折、ぴょんぴょん跳ぶような感じになり、ああ猫だ、と思いました。母から獣医の予測として聞いたところ、鼠捕りに引っ掛かったようです。ネバネバしたものが何だったのかをお話すると先述していますが、鼠捕りの粘着物でした。しかも、髭や体の毛が無理矢理カットされた跡もあり、鼠捕りに押し込まれ、そこから必死になって逃げたのでは、とのことでした。獣医曰く、やられたな、とのことです。

 

当サイトで何度も申し上げていますが、わたしは動物愛護という言葉があまり好きではありません。犬を飼っているくせに、と思うかもしれませんが、どこかイデオロギー的な匂いを感じてしまい、自然と嫌悪してしまいます。もちろん、動物愛護運動の影響で、法律等が改正され、ペットが単なる飼い主の所有物ではなく、命あるもの、と認識されるようになったことは悪いことではないでしょう。

 

しかし、偏ったイデオロギーで大衆を扇動するように感じてしまうことは否めない思いです。おそらくお気づきの方もいるかもしれませんが、人権という言葉もあまり好きではありません。わたしの中では、人権というものは、社会生活上の単なる道具でしかなく、そんなもので人を定義できない、と思っています。生き物に対しても同様であり、動物の権利云々という考えは、わたしのような者には、決して馴染めないものです。

 

したがって、先の獣医の言葉で、動物愛護が云々、生き物を大事にしない人は人も大切にしない云々などとは声を大にして言いたくありません。ただ一般的な感情として、飼い犬が死んだような猫を見つけ、まだ息があり、狭い家でも飼えないことはないので連れて帰りたい、と思っただけです。

 

要するに、「常識」で振る舞っただけであり、野良猫や野良犬を飼う人は、こういう気持ちで動かされているケースが多いかもしれません。やはり、生きんとする意志は、単なるイデオロギーを超えるようにも感じていますが、話が大いにそれてしまいますので、ここらあたりで終りにしておきます。

 

いずれにせよ、身動き一つしなかった猫が、元気に走り回れるようになり、正直ほっとしたことは確かです。連れて来た当日、写真を撮ることができましたが、あまりにも酷く感じ、iPhoneを向けることができませんでした。しかし、翌日の通院後、前日よりもかなり良くなったので、写真に収めています。

 

猫サクラ-

 

良くなったとはいえ、前足や体の半身に粘着物が残っています。バターと小麦粉を使って落とすことを聞いたので、この日から母と共に行いました。食事については、獣医専用のキャットフードを与えることになっています。これは今でも続き、いずれは市販品に切り替えられるようです。

 

こうして、日に日に猫らしさが出て来ました。わたしや母が特別努力したのではなく、猫自身の意志の力でしょう。連れてきてから現時点で約半月になりますが、以下のような状態になっています。

 

猫サクラ-

 

しかし、元気になるのはいいですが、人の年齢で言えば、推定5から8歳程度です。遊びたい盛りであり、しかも、良く食べます。わたしや母にとって迷惑だと思う行動も、猫にとっては平気です。当然といえば当然で、うちの柴が小さかった時も、呆れて怒ることができない程、部屋を荒らされたことがあります。犬と猫では違いもあるでしょうが、犬から学んだことは、特性や習性あるいは本能などをきちんと踏まえておく、ということです。

 

先述しているように、かつて猫を飼ったことはありますが、ほとんど外飼いのようでした。室内で飼うには、より猫を知る必要があります。うちの柴で学んだことを今の猫にも活かすことができれば、と別に良い人になるつもりはありませんが、心の底から思っています。また、まだまだ子供なのでしょう。うちの柴と同じ部屋に置いたら、後を追いかけ、ミルクを求めるようになりました。当初、うちの柴は嫌がっていましたが、しつこさに根負けしたのか、授乳するようになりました。もっとも毎回ではなく、気分が向いた時などに受け入れているようです。そんな授乳風景の一コマを動画に収めています。

 

 

うちの柴と暮らし始めてから、すでに10年が過ぎ、あと半年程で11年になります。子供を産ませなかったのですが、諸々の事情でできず、ひょんなことで子供を産ませたことと似たような状況になりました。しかも、相手は猫です。実はわたしもずいぶん前に義父のような立場だった時もありました。今度はうちの柴が義母のようになり、ペットは飼い主に似るともいいますが、こんなところまで似るとは思いも寄りませんでした(笑)。

 

母が加わるまで、二人暮らしをして来た飼い主にとっては、こいつがかあちゃんね、とつい思ってしまいます。人でいえば還暦を過ぎていますが、獣医によれば、母乳が出るのでまだ子供を産める、とのことです。迷いも出て来ますが、総合的に鑑み、血の通った子供を持たせることは、現状ではあり得ません。しかし、将来については分かりません。もしかしたら、違う柴、あるいは、別の犬種で産ませたくなるかもしれません。

 

柴犬ヒロ-15

 

さてさて、バカ犬にバカ猫が加わり、今後どんな展開を歩んでいくのか、飼い主として楽しみでもあります。うちの柴がようやく落ち着いたかと思ったら、猫についてもっと学ばなければいけなくなり、これもまた縁なのかもしれません。今後、猫の飼い方やエッセイなども、当サイトでアップできれば、と思っています。

 

今回はこれまでになります。

 
 

追記:2016年7月3日

 

上記の動画では、うちの柴がしつこさに負けていますが、次第に自分から与える時もありました。以下のもので見ることができますので、ご興味がおありになれば、ご覧下さい。

 

 

ちなみに、繁殖に関連した記事もすでにアップしています。こちらもご興味がおありになれば、お読み下さい。

 

柴犬の飼い方 : 繁殖について

 

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