柴犬のしつけと生活

飼う前の心掛け

皆さんが、柴犬を飼おうとするきっかけは、どういうことからでしょうか? 柴犬だけでなく、チワワでもダックスフンドでも秋田犬でも、あるいは、犬でなく、猫でもウサギでも、飼おうとする理由が、色々あるかと思います。ペットショップで見掛け、かわいかったから、ということもあるでしょう。また、犬が主人公の映画やテレビドラマなどを視聴し、自分も犬を飼いたい、と思ったからかもしれません。

 

わたしの場合、柴犬が好きだから、という理由で、近所のペットショップから引き取って来ました。何かを欲しいということは、やはり、感情的な部分が大きいようです。けれども、犬のようなペットを飼うからには、感情ばかりでなく、それなりの覚悟も必要であると思います。

 

わたしが、若い頃は、近所で野良犬をよく見かけました。首輪を付けた犬も、ウロウロし、逃げて来たか、あるいは、飼い主に捨てられたのでしょう。色々な事情があるとはいえ、捨て犬に関しては、犬というより、人の問題であるように思います。そうは言っても、わたしが見るところ、ひと頃より、野良犬がいなくなったように思います。逆に見掛ける方が、珍しくなっています。通常、野良犬を目にした時、保健所に通報すると、担当者が捕獲しに来ます。施設に連れて行き、数日の猶予後、引き取り手がなければ、そのまま処分となります。

 

うちの柴と散歩中、ほんのたまに野良犬と遭遇します。あまり良い表現ではないかもしれませんが、見掛ける機会が少ないので、妙に新鮮な感じがします。今の住まいが、北浦和という住宅ばかりのところなので、余計にそう感じてしまうのかもしれません。しかし、野良犬が消えることはなく、現在でも処分が続いています。だからと言って、わたしは、ペットを守ろう、動物に愛を、命の尊さをもっと学ぼう、などと言うつもりは、毛頭ありません。そういう考えに完全に同意している訳ではなく、なおかつ、そういうことを言えるほど、たいした生き方もしていないからです。

 

ただし、わたしの柴も含め、犬などの動物に触れる度、いつも感じてしまうことは、陳腐な言葉以上に、生き物には、生命の力があり、しかも、その点では、ヒトと共通しているのでは、ということです。哲学者にニーチェという人がいましたが、彼は、生きんとする意志、というような表現を使っていました。わたしなりの解釈をすれば、それは生きるための力であり、生を求めるもの、と言い換えることができます。ニーチェ自身も、有名な「力への意志」という言葉を使い、おそらく、人の感性などを含めた本能的なものを見つめようとしたのでしょう。わたしなりの理解では、そういう意志は、常に流動的であり、鎮めようとしても、なかなか鎮まるものではありません。

 

なおかつ、何かを変えようという契機にもなるもので、仮に爆発してしまったら、止まりようがないものかもしれません。感情的、ということが、否定されがちですが、それは、時に暴走電車のようになり、ブレーキの効かない要素を持っているからでしょう。けれども、逆に考えれば、それだけパワフルであり、人が行動を起こす源でもあると思います。それを見つめることは、行き詰った自分をも奮い立たすことができるでしょう。

 

だからと言って、感情のような本能的なものに任せてばかりでは、他人は元より、自分をも破壊してしまうため、理性というものが、大事なように思います。結局、常識的なことに戻りますが、感性と理性の微妙な平衡状態を保つことが、生きることには、大切なのかもしれません。

 



 

少々話がずれた感じですが(^。^)、上記のようなパワフルなものを持ちながらも、ある見方に固執すると、それだけ、ブレーキをかけ過ぎてしまい、逆に物事が見えなくなるように思います。引いては、過剰な振る舞いとなってしまい、さらなる窮屈さを引き起こすようにも思います。要は、生命を尊重したいなら、そればかりを合唱していても、尊重に繋がるのか?、ということです。

 

ある見方への固執が硬直化を起こし、もともと潜在している生き生きとしたものを阻害してしまうように思います。行きすぎれば、狂信となり、どうにもしようのない状態になるでしょう。面白いというと語弊を感じる人もいるかもしれませんが、理性を駆使した考えが、最終的には、感情的なものへと変化し、そのまま暴走を続けてしまう可能性があります。これまでの歴史の中でも、こういうことがあったのではないでしょうか?

 

そうは言っても、ヒトに関して言えば、生きんとする意志という敢えて称すれば、生きるから生きるという単純な要素を持ちながら、理性というものがあるため、論理でもって、追求していこうという姿勢もあります。むしろ、単純だからこそ、複雑さを求めるのでしょう。このため、不安定さの中に安定さを求め、ある考えに固執することも、理解できます。しかし、それを行えば、先にも言ったように、物事を見誤る可能性があります。やはり、常識的なことに戻り、感性と理性の微妙な平衡状態が、わたしにとっては、良好なことのように思っています。

 

いずれにせよ、生きんとする力は、ヒトとともに、動物にも共通しているように感じます。動物の方が、ヒトよりも、なお一層、素直かもしれません。

 

以上のように、どこかでヒトと通じているような動物が、ヒトの都合で処分されてしまうことに、柴犬の飼い主の一人として、非常に寂しさを感じます。陳腐な言葉が嫌いですが、こういう気持ちは拭えません。環境省の平成21年度(2009年)の統計によれば、平成20年度(2008年)の処分数は、捕獲や引き取り等の全犬猫の内、約27万匹となっています。非常に大きな数のように感じますが、かつては、ひと桁上の数字だったでしょう。

 

おそらく、犬猫に対する意識の変化もあり、また、動物愛護運動などの成果もあるかもしれず、それはそれで、結構なことです。しかし、わたし個人は、先にもお話したように、動物愛護ということに、違和感を覚えます。子犬などがかわいいのは、わたしも素直に認めますが、自分の経験上、犬はあくまで犬であり、ヒトと違う種属です。そうでありながら、先にもお話したように、ヒトと通じるような「生きんとする力」があり、しかも、犬の場合、ヒトとの長い付き合いもあるため、ヒトに似てしまった部分があるのも、事実かもしれまれん。

 

一説によれば、大人になってから遊ぶ動物は、犬と猫とヒトだけだそうです。犬も猫も、ヒトとの共生を選択したため、ヒトからの影響も大きいのでしょう。もっとも、犬も猫も、特にペット化したものは、ヒトが改良し、純粋な野生動物とは、言えない面もあります。けれども、動物は動物であり、ヒトよりも野性味を帯びた生き物です。わたしは、自分の柴と暮らしながら、つくづく思うことがあります。

 

「犬は、半分自分の子供で、半分畜生だ」(^。^)

 

生意気な物言いですが、ペットを飼う上で、大事な心掛けは、過保護にもならず、かといって、粗雑過ぎてもいけないということです。そうだからこそ、子供と一緒とも言え、きちんと最後まで面倒を見ることが、飼い主になる最低限の約束事のようにも思います。半分子供で半分畜生であるものに、自分の思いを伝えたければ、特性や習性や本能などをしっかり見つめることも、大切です。「敵を知り己を知れば、百戦危うべからず」に似ています。(^。^)

 

ちなみに、今の柴を飼い始めた頃、わたし自身も困ってばかりいました。言うことを聞かず、思い通りにもならず、イライラし、こんなはずじゃない、こいつはだめだ、どこかに捨てよう、などと何度も思いました。けれども、どうにかこうにか、今まで暮らして来られたのは、厄介者でも、いや、厄介者だからこそ、自分の子供のようであり、なおかつ、責任逃れをしたくなかったからです。また、ある時、腹が立ってどうにもしようがなくなり、こいつ何とかしたい、と思いながら、ふとある言葉が浮かびました。以後、怒りがこみ上げると、それを自分に言い聞かせて来ました。本音を言えば、今でも時々あります。(^。^)

 

その言葉とは、仕方ない、です。これは、マイナスに感じるかもしれませんが、こう思うことも、責任を果たすための自己暗示的なものであり、なおかつ、「Let it be」にも、通じるように思います。(^。^)

 

以上、柴犬を飼う前の心掛けになりますが、説教臭く、しかも、訳の分からないような表現もあり、実にまとまりのない文章で、誠に恥ずかしい限りです。わたしの思いがどこまでお伝えできたか、定かではありませんが、少しでもお役に立つようでしたら、作成者冥利に尽きます。今回は、これまでです。

 

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 柴犬の飼い方
飼い主の義務 

 

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