犬が似る? 人が似る? 

皆さんは、柴犬と聞くと、何をイメージするでしょうか? やはり、両耳が立ち、巻き尾で小柄ながらも、凜々しい感じがし、どこか頼もしさを醸し出している、という姿ではないでしょうか? おそらく下記のようなプレートのイラストが、イメージにあった柴犬かもしれません。

 

 

専門の職人がデザインし、西洋絵画の伝統も感じられ、しっかりしたタッチになっているのでは、と素人ながらに思います。もっとも、こういうプレートは、飾り物が似合うと思ってしまいますが、実際に食事で使っている人もいるのかもしれません。なんて贅沢な、とも思ってしまい、わたしのようなオヤジからは、貧乏性が抜けきらないようです。(^o^)

 

けれども、デザインとはいえ、柴犬が描かれているため、わたしのようなオヤジでも、ついつい気になってしまいます。先のイメージも浮かんできますが、野性味も感じられ、しかも、真摯な忠実さも表現されているようです。これぞ日本生まれの日本犬であり、粋という言葉も似合うように思います。

 

しかし、現実は、そうばかりとは言えません。うちの柴と比べれば、いやはや、仕方ねえか、と思ってしまいます。

 

 

どこが柴だ!!、と叫びたくなりますが、室内飼いで、しかも、始終わたしの隣にいるので、かつてのような番犬とはほど遠くなっているのでしょう。

 



 

そう言えば、数年前、掛かり付けの動物病院へフィラリアの薬を取りに行った時のことです。今では血液検査もなく、薬をもらうだけで予防できるようになっていますが、当時は、フィラリア対策を始める際、必ず血液検査が行われたため、うちの柴を同伴しました。受付で女性獣医が対応している時、待っている中年女性が小型犬を撫でながら言いました。

 

「柴犬ね。番犬にはいいわね」

 

すると、先の女性獣医が口を開きました。

 

「〇〇ちゃん、番犬なの?」

 

わたしは、返す言葉がなく、ただただ愛想笑いをしていました。ふと中年女性を見ると、目を円くし、膨れっ面のような表情をしていました。女性獣医との間に何があったのか知りませんが、自分の犬をトピックに静かな応酬があったことは間違いないかもしれません。(^o^)

 

しかし、応酬はどうあれ、女性獣医にも見抜かれているように、うちの柴は、単なる愛玩犬となり果てているようです。柴犬は、主人に忠実な余り、他人を警戒する傾向が強いとも聞いています。しつけに失敗すると、無駄吠えが多くなってしまうこともあるようです。幸いうちの柴の場合、生後半年までペットショップに置かれ、社会性を身に付ける時期に、いろいろな人と接触でき、人を怖がることがないようです。わたしが飼い始めた頃は、人を見ると誰にでもついていこうとしていました。

 

誰でも良い人。

 

そんなことを思っていたのかもしれません。けれども、世の中には色々な人がいます。世界的に治安が良いとされる日本でも、国民全員が良い人であると言えないのは、当たり前のことでしょう。そのため、信じてばかりいてはダメだ!!、と言っていますが、上記の画像のような惚けた表情で、じっとわたしの顔を見ているだけです。(^o^)

 

けれども、幸運と言えるかもしれませんが、うちの柴は、無駄吠えがほとんどなく、その点では、しつけがしやすかったです。売れ残りだったため、福が付いてきたのかもしれません(笑)。そうは言いながらも、食事や散歩の前後などで、たまにワンと鳴くことがあります。耳元でやられると、鼓膜が破れるように感じ、バカヤローと一喝すると、シュンとなってしまいます。バカでも、すまないことをした、と感じられるのかもしれません。

 

しかし、ラッキーな面があるとはいえ、もう少しキリリとしてもいいじゃねえか、とも思っています。欲を言ったら切りがありませんが、それもまた、自分の子供のようだからでしょう。たとえ生物種が異なっても、子は親の鏡、ともなるのかもしれません。最近、自分の顔を鏡で見るたび、どこのバカ犬だ?、と思うこともあります。

 

犬が似るのか、人が似るのか、コロンブスの卵のようですが、これもまた、犬との暮らしの一場面であることは確かなことです。

 

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